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『村上朝日堂』47
豆腐(3)
巴黎的家庭主妇从来只吃新鲜的面包,每次要做饭前才去店里买,吃剩的通通扔掉。我觉得不管别人怎么说三道四,就应该这样。豆腐自然也是如此,吃就要吃刚买回来的,隔夜的绝对不吃,这才合情合理。仅仅因为嫌麻烦就吃隔夜豆腐的做法造成了防腐剂和食品添加剂的滥用。
豆腐店老板当然也是这样想的,所以才会为了让大家早上做味增汤的时候能用上新鲜豆腐,凌晨四点就爬起来辛勤劳动。可是人们现在早饭不是吃面包(我家也吃),就是用超市买来的加了防腐剂的可以放很多天的豆腐,也难怪豆腐店老板会没了干劲。结果呢,真正意义上的豆腐店从街上一家一家地消失了。
现在这个年代啊,找不着大清早四点就爬起来干活的有追求的人了。真悲哀。
提起豆腐,就会想到小时候在京都南禅寺一带吃到的豆腐锅,那叫一个好吃啊。可如今那儿彻底成了旅游胜地,豆腐锅也因此变得“花里胡哨”,以前的味道整体上更简朴,更淡雅。
爸爸的老家就在南禅寺附近,我常常沿着运河在银阁寺周围散步,然后坐在那一带豆腐店的院子里,一边呼呼地吹气,一边吃滚烫滚烫的豆腐。怎么形容好呢,类似于巴黎街边的可丽饼摊儿,豆腐锅是一种给小老百姓吃的很纯粹的食物。
所以我完全无法理解最近那种要价五千的豆腐套餐。毕竟归根到底只是豆腐而已嘛。
虽然只是豆腐,可又不仅仅只是豆腐。豆腐始终立定脚跟,毫无畏惧。特别喜欢豆腐的这种姿态。
豆腐店老板当然也是这样想的,所以才会为了让大家早上做味增汤的时候能用上新鲜豆腐,凌晨四点就爬起来辛勤劳动。可是人们现在早饭不是吃面包(我家也吃),就是用超市买来的加了防腐剂的可以放很多天的豆腐,也难怪豆腐店老板会没了干劲。结果呢,真正意义上的豆腐店从街上一家一家地消失了。
现在这个年代啊,找不着大清早四点就爬起来干活的有追求的人了。真悲哀。
提起豆腐,就会想到小时候在京都南禅寺一带吃到的豆腐锅,那叫一个好吃啊。可如今那儿彻底成了旅游胜地,豆腐锅也因此变得“花里胡哨”,以前的味道整体上更简朴,更淡雅。
爸爸的老家就在南禅寺附近,我常常沿着运河在银阁寺周围散步,然后坐在那一带豆腐店的院子里,一边呼呼地吹气,一边吃滚烫滚烫的豆腐。怎么形容好呢,类似于巴黎街边的可丽饼摊儿,豆腐锅是一种给小老百姓吃的很纯粹的食物。
所以我完全无法理解最近那种要价五千的豆腐套餐。毕竟归根到底只是豆腐而已嘛。
虽然只是豆腐,可又不仅仅只是豆腐。豆腐始终立定脚跟,毫无畏惧。特别喜欢豆腐的这种姿态。
倪逸舟译
2017/08/17
2017/08/17
「豆腐」について(3)
パリの主婦はパンの買い置きをしない。食事のたびごとに彼女たちはパン屋に行ってパンを買い、余れば捨ててしまう。食事というのは誰がなんといおうとそういうものだ、と僕は思う。お豆腐だってそうで、買ったばかりのものを食べる、宵越しの豆腐なんか食えるか、というのがまともな人間の考え方である。めんどうだから宵越しのものでも食べちゃおうという精神が防腐剤とか凝固剤とかいったものの注入を招くのである。
お豆腐屋さんだってそう思うからこそ、朝の味噌汁に間にあうようにと、朝の四時から起きて一所懸命おいしい豆腐を作っているわけなのだが、みんな朝はパンを食べるとか(うちもそうだ)スーパーの防腐剤入りのもちの良い豆腐を使っちゃうとかだから、お豆腐屋さんの方だってはりがなくなってしまうのだろう。だから本格的なきちんとした豆腐屋が町から一軒一軒と姿を消していく。
だいたい今どき、朝の四時に起きて働こうなんていう殊勝な人は、いなくなっちゃったものね。残念である。
豆腐といえば子供のころに京都の南禅寺あたりで食べた湯豆腐がなんともいえずおいしかった。今では南禅寺の湯豆腐も「アンノン」風にすっかり観光化されてしまったけれど、昔は全体的にもっと素朴で質素な味わいがあった。
父親の家が南禅寺の近くにあったので、疎水に沿ってよく銀閣あたりを散歩し、それからそのへんの豆腐屋の庭先に座って、ふうふう言いながら熱い豆腐を食べた。これはなんというか、パリの街角のクレープ屋台にも似た庶民のための素朴な精進料理である。
だから最近のコースにして五千円なんていうのは、なんだかおかしいんじゃないかと思う。だってたかが豆腐じゃないですか?
たかが豆腐、というところで、豆腐はぐっとふみとどまってがんばっているのである。僕はそういう豆腐のあり方がとても好きである。
お豆腐屋さんだってそう思うからこそ、朝の味噌汁に間にあうようにと、朝の四時から起きて一所懸命おいしい豆腐を作っているわけなのだが、みんな朝はパンを食べるとか(うちもそうだ)スーパーの防腐剤入りのもちの良い豆腐を使っちゃうとかだから、お豆腐屋さんの方だってはりがなくなってしまうのだろう。だから本格的なきちんとした豆腐屋が町から一軒一軒と姿を消していく。
だいたい今どき、朝の四時に起きて働こうなんていう殊勝な人は、いなくなっちゃったものね。残念である。
豆腐といえば子供のころに京都の南禅寺あたりで食べた湯豆腐がなんともいえずおいしかった。今では南禅寺の湯豆腐も「アンノン」風にすっかり観光化されてしまったけれど、昔は全体的にもっと素朴で質素な味わいがあった。
父親の家が南禅寺の近くにあったので、疎水に沿ってよく銀閣あたりを散歩し、それからそのへんの豆腐屋の庭先に座って、ふうふう言いながら熱い豆腐を食べた。これはなんというか、パリの街角のクレープ屋台にも似た庶民のための素朴な精進料理である。
だから最近のコースにして五千円なんていうのは、なんだかおかしいんじゃないかと思う。だってたかが豆腐じゃないですか?
たかが豆腐、というところで、豆腐はぐっとふみとどまってがんばっているのである。僕はそういう豆腐のあり方がとても好きである。
村上春樹/安西水丸 『村上朝日堂』より
VIA@Izard720